Ryo's Diary

日常で感じた違和感や心が動いた体験を書き留めています。主なテーマは仕事、本、吃音など。

私の吃音歴(発吃~言友会入会前)

吃音はいつから?

最初の記憶は小学校5年生のとき。駄菓子屋で同級生と話しているときに難発で声が出てこなくなり「早く言えよ」と突っ込まれた。

母や祖父母によると、小学校3年生のときに激しく吃る同級生がいて、その子の真似を一時期していたことがあったらしい。それ以来、「あんたが吃るようになったのは、あのとき真似をしたから移ったんだ」と思い込んでいて、私の吃りの話題が出るたびにそのことを責められていた。

 

吃音を意識するようになったのは?

中学生になり連発がよく出るようになった。最初は気にせず話していたが、同級生に真似をされてからかわれたり野球部の仲間に「なんで話すときそうなるん?」と言われたりして、徐々に意識するようになった。次第に症状も酷くなり、自分から話すことも自然と減っていった。

 

高校生活はどうだった?

高校入学後は、自分が吃る姿を絶対に他人に見せないようにしていた。人と話す機会を極力避けて、同級生に何か話しかけられたときは愛想笑いするか聞こえないふりをして無視をすることが多かった。周りからは無口で無愛想な奴に見えていたと思う。その結果クラスで孤立することになるが、「人前で吃るくらいなら友達なんていらない」と当時は思っていた。

この頃は吃音について何も知識が無かったので、吃るのは「気が弱いから」「頭の回転が早くて言葉にするときそのスピードについていけないのではないか」などと考えていた。そんな自分を変えたくて、1年生の後期半年間だけクラス委員長をしたことがある。毎日毎時間授業が始まるたびに「起立、気を付け、礼、着席」を言わなければいけない。たまに言葉が出てこなくて先生や同級生達に不思議そうな顔をされたこともあったが、最後までやり遂げることができた。これで吃音が軽減することはなかったけど、困難に自ら立ち向かったという経験が大きな自信となり今でも残っている。

 

カミングアウトはした?

僕が吃音という言葉を初めて知ったのは高校2年生のとき。ネットで「どもり」と検索したときに吃音のWikipediaを見つけた。自分と全く同じ症状が書かれているのを見て、「話せないのはこういう病気だったんだ」と知りすごく安心した。

しかし親にはすぐにそのことを話せたが、「障害者として差別されるのではないか」「話す姿を今まで以上に注目されるのではないか」「打ち明けたところで『気にするな』『悩んでいるのはお前だけじゃない』と言われて理解してもらえないのではないか」と考えるとそれ以外の人達には打ち明けることが出来なかった。また、それまでに同級生・学校の先生・空手の先輩など5人ほど軽度だが吃音のある人と出会ったことがある。みんな少しくらい吃っても悩んでいるような素振りを見せず過ごしていたのでこんなことで悩んでいる自分が情けないと思っていた。

 

吃音で悔しかったことは?

  • 先生から名前を聞かれて答えられなかったら「自分の名前もわからんのか?」と鼻で笑われた。
  • バドミントンの授業で得点係をしていたとき、プレーしていた同級生から得点を聞かれて答えられなかったら「ちゃんと数えとけや」とキレられた。
  • 授業中先生に当てられて答えがわかっていたけど、苦手なカ行の言葉だったのでわかりませんと答えた。※わかりませんだけは吃らずに言える。
  • 先生に名前を読み間違えられたが、訂正できずそのまま「...はい」と答えたらクラスメイトにクスクス笑われた。

 

印象に残っている出来事は?

19歳のとき、それまで所属していた空手の道場が子供ばかりで練習相手がいないので、もっと強い選手達と稽古ができる道場に移籍したいと思うようになった。しかし直接言葉で伝えられる自信が無かったのでメールで当時の先生にその旨を伝えたら、「そんな大事なことメールで伝えるってなに?」「人としてありえない」と言われた。その後、その先生には大会で会っても冷たくされたり、新しい道場の生徒達と出稽古に行ったとき「なんでいるの?お前はもうここでは稽古させないから」と言われ一人だけ帰らされた。すごく、悔しかった。

 

社会に出てからは?

高校を出たあとは、出来るだけ人と話す仕事をしたくてスーパーのレジ打ちを始めた。仕事は何とかなったけど、職場の人たちとは打ち解けることが出来ず、休憩中はひたすら表情を変えず俯いていた。

次はもっと辛い仕事を選んで自分を追い込んでみようと土木のアルバイトを始めた。現場なので大声で指示を出す必要があり、毎日盛大に吃りながら声を出していた。それでも些細な気遣いの言葉がどうしても言えなくて「思いやりがない」と散々言われた。ある日、とうとう耐えられなくなって退職願を事務所に投函して逃げるように辞めてしまった。

次は工場でライン作業をしていた。ここでも職場の人たちと全く打ち解けることができず、話しかけられても「そうですね」くらいしか返せなかった。「あいつとは会話が続かない」と陰で言われていたらしい。

 

この頃までは、頭の中は寝ても覚めても吃音のことばかりだった。「吃音さえなければ...」という思いがどうしても拭えなくて、現実を受け入れることができなかった。

 

しかしその後、言友会と出会うことで私の吃音観は大きく変わることになる。

 

つづく