Ryo's Diary

日常で感じた違和感や心が動いた体験を書き留めています。主なテーマは仕事、本、吃音など。

今までの職務経歴

私はこれまで吃音と発達障害を抱えながら様々な仕事を経験してきました。どのような仕事をしてきたか、入社のきっかけや退職の理由、それぞれの仕事で学べたことについて書いていきます。

 

中卒・障害者・資格なしからの就職活動
私は石川県の母子家庭で育ち、高校に進学するものの学費が払えず卒業することができませんでした。仕事を探すにしても、重度の吃音があるためコミュニケーションが必要な仕事は選べず、普通免許も無かったので職業選択の幅がかなり限られていました。

 

1、スーパーのレジ打ち(1年6ヶ月)
初めてのアルバイトはスーパーのレジ打ちでした。不特定多数の人に自分が話す姿を見られることへの恐怖はありましたが、人前で声を出す仕事に挑戦することで、少しでも吃音を克服したいという理由からレジ打ちの仕事を選びました。

仕事では、お客さんにキャンペーンの説明をするときなど上手く話せなくて聞き返されたり、休憩中にバイト仲間達の輪に入れず空気のような存在で辛いときもありましたが、積極的に人前で話す仕事に挑戦したという事実が自信につながりました。

ここでは週4回ほどシフトに入り毎月6万円ほど収入を得ていましたが、本格的に働いてお金を稼ぎたいという理由から退職しました。

 

2、土木作業員(5ヶ月)
当初は工場で働きたいと考えていましたが、どこも高卒以上、普通免許必須で応募すらできませんでした。そのため、まずは普通免許を取るための費用を稼ごうと、体力には自信があったことから土木作業員のアルバイトを始めることにしました。

土木現場は中卒でガラの悪い人が多く、仕事中はよく怒鳴られ、ときには頭を踏みつけられることもありました。その反面、仕事は熱心に取り組む面白くて人情味が溢れる先輩方ばかりでした。思い出に残っていることは、一緒に現場で作業していた先輩から、

最初は仕事ができないのは当然だ。でも本当に当然だと思うなよ。
と言われたことです。出来ないなりに、早く仕事を覚えられるよう努力は怠るなよという意味で今でも心に留めています。

ここでは5ヶ月ほど働きましたが、
・現場では遠く離れた人と大声で会話する必要がある
・工期が短く危険が伴う作業のため、臨機応変な判断とスピーディな指示出しが求められる
・地面を均等にならす、水糸を平行に張るなどの感覚が鈍い(目で見ても細かなズレが分からない)
・一人でできる仕事ではないので、常に自分からコミュニケーションを取る必要がある
・打ち合わせの内容が理解できない(言葉の意味を理解すること、情報を整理すること、質問して補完することなど)

などの理由から、自分には向いていないと考えるようになりました。当時は「何をすればいいですか」など自発的に聞くことができず、ただ呆然と立ち尽くしているだけのときもありました。また危険が伴う作業のため咄嗟に声かけが必要になることがありますが、吃音がある私には到底できるとは思えませんでした。

あるとき水で汚れを落とす作業をする際、近くで別の作業をしていた先輩に声をかけず作業を始めたら、水がかかってしまったことがあります。そのとき「一言声をかけるとかできないの?思いやりがないね」と言われたことがとてもショックでした。この頃は吃音があることを打ち明けておらず、ただ無口な人という印象だったので、お互いにストレスが溜まっていました。

結果的に目標としていた普通免許費用を稼ぐことができたので、退職することにしました。

 

3、物流センターで自動車部品の積込み(1年間)
普通免許取得後、たまたま求人情報誌を眺めていたら「愛知県で派遣社員として働きませんか」と書かれた求人を見つけました。都会で一人暮らしをしたいという憧れがあったため、すぐに応募しました。

仕事内容としては、自動車部品がコンベアに乗って流れてくるので、それをバーコードでスキャンしてコンテナに積み込むという単純作業の繰り返しでした。名古屋での一人暮らしは刺激的で楽しかったのですが、肉体労働で身体的にも精神的にも辛く、月給も19万円程度だったので、ここで長く働いてもスキルアップや貯金ができないという理由から退職しました。

 

4、町工場の作業員(5年6ヶ月)
正社員の求人を探していると、縁があった工場経営者の方に誘われてそちらの工場で働かせて頂くことになりました。ここでは自動車部品や半導体製品の製造に関わる設備を製作しており、自社での製作から客先での据付まで幅広い業務を担当していました。

仕事はやりがいのある部分もありましたが、辞める数年前から障害や家庭環境が原因で心に傷を負った人たちの支援をしたいと考えていたので、退職して障害福祉の道に進むことにしました。

もしこの仕事の不満点を挙げるとすれば下記があります。
・休日出勤や県外への出張が多くプライベートの時間が取れない
・金属加工や重量物の運搬中に大怪我するリスクがある
・人間関係(気性が荒く怒鳴り散らす人が多い)
・手先が不器用で、溶接やグラインダーを使った加工技術が上達しない

 

5、障害者の就労支援員(1年3ヶ月)
吃音やその二次障害と向き合ってきた経験を生かしたい。この頃にはコミュニケーションにも自信がついており、営業や講師のような積極的に人と話す仕事にも挑戦したいという理由から、障害者の就労支援施設で働くことにしました。

仕事はとても楽しく、職場の雰囲気もよくて毎日が充実していました。営業や電話対応、利用者に向けた講座の担当など人と喋る機会が多い仕事でしたが、大きな問題なく業務を進めることができました。社会人として成長できることも多く、本当なら辞めたくなかったのですが、収入面から生活がどうしても苦しくなり貯金が底を尽きる寸前で退職しました。

 

6、スーパー銭湯の清掃(就労支援員と兼業/6ヶ月)
就労支援員の年収が220万円程度なので、生活費を補うため副業でスーパー銭湯の清掃をしていました。平日の朝5時から7時まで週5回勤務しており、毎月5万5千円ほど稼ぐことができました。

朝からよい運動になり、時給も高いのでしばらく続けていたのですが、毎日6時間未満の睡眠しか取れず、真冬の朝早くに起きなければならないストレスから睡眠障害に襲われるようになりました。本業にも支障をきたし、資格試験の勉強にも身が入らなくなってしまったので、就労支援の仕事とともに退職して、もう少し給与の高い仕事を探すことにしました。

 

そして、現在
就労支援の仕事を辞めたあとは、失業手当を受けながら3ヶ月間、職業訓練を受講していました。ここでの詳細は次回以降記事にする予定ですが、訓練受講後は再び就労支援員として内定を頂くことができました。

収入面ではそれほど変わりませんが、利用者層や訓練内容が自分のやりたかった内容に近いのでやりがいがありそうです。前職では睡眠時間を削って副業をしていたことがストレスの原因だったので、今後は無理のない副業を探して続けていきます。

 

ここまでが私の職務経歴となります。転職回数は多い方ですが、それぞれに出会いや学びがあり思い出深いです。仕事において、自分の特性や進むべき方向性が見えてきたので、今後はぶれることなくその道を進んでいきます。