Ryo's Diary

日常で感じた違和感や心が動いた体験を書き留めています。主なテーマは仕事、本、吃音など。

大人になって気付いた親の気持ち

幼い頃から両親のことが嫌いだった。

 
定職に就かず、朝は好きなだけ寝て目が覚めればパチンコに行く父。母も父について行くことが多く、家事をほとんどせず堕落した生活をしていた。
 
小学生の頃、父と母がパチンコ屋にいる間は、何時間もお店の駐車場の中で待たされていた。真っ暗な密室に一人きりにされ、唯一の楽しみはパチンコ店独特の派手なイルミネーションを車中から眺めていることだけだった。
 
「もし将来、自分に子どもができたら絶対こんな場所に一人ぼっちにさせない」
 
小学4年生ながらに心にそう誓ったことを今でも強く覚えている。それでも純粋だった私は両親の言いつけを守り、駐車場に見回り(車内に子どもがいないか確認する)の人が来れば咄嗟に隠れ、このことを誰にも打ち明けなかった。親に迷惑をかけたり、周りに心配させないためだった。
 
小学6年生のある日、学校から帰ると父の姿が見当たらなかった。「出張に行った」と母から聞かされたが、それから数年間父が帰ってくることはなかった。
 
父が居なくなってから、母はますます堕落した生活を送るようになっていた。仕事も家事もせず毎日携帯を触りながら深夜4時頃まで起きていて、朝の通学時間になっても起きてこない日がよくあった。
 
私もそれに便乗して朝9時頃まで寝てそれから学校に行っていた。今では考えられない話だが、中学3年間で遅刻回数は200回を超えていた。
 
中学では毎日お弁当を持参する必要があるのだが、母はたまにしか起きてこないため昼食時間になっても私だけお弁当がないということがよくあった。一度学校で問題になり、担任の先生が母に「お弁当は毎日持たせてあげてください」と伝えてくれたことがある。それに対して母は「息子が栄養が偏るからいらないって言ってるんです」と答えたそうだ。母に問い質すと「面倒くさいから適当に答えた」と話していた。
 
お弁当を食べない日が続いたある日、隣の席のクラスメイトが「今日はお腹の調子が悪いからこれもらってくれない」とパンを分けてくれた。次の日も、その次の日も。席替えをして他のクラスメイトが隣に来たときも、昼食時間になるとおかずを分けてくれていた。それもメインディッシュであるはずの唐揚げをだ。
 
「別にいいよ」と断っても彼らは親切に食べ物を分け続けてくれた。お昼休み、一人になれる場所でこっそり泣いていた。
 
中学3年生になり高校受験を控えたある日のこと、突然父が帰ってきた。今までお小遣いをあげられなかったからと2万円を渡そうとしてきたが、「もらっても使い道がないからいいよ」と言って受け取らなかった。
 
父のことは憎んでいるはずなのに、ずっと貧しい生活をしてきた父にとってそのお金は大金のはずだから、例え今まで父親らしいことをしてやれなかった申し訳無さやわずかな親心があったとしても、良心が痛み受け取ることができなかった。俺に渡すくらいなら生活費に当ててほしいと思った。数週間後、父は再び家を出て行った。
 
その後高校に進学した私は、人一倍勉強を頑張るようになった。「真面目に生きたい」と願い、クラス委員長を務め成績もクラスでトップを維持していた。
 
しかし、高校2年生のある日、突然生徒指導室に呼び出された。内容は授業料のことで、「もしこのまま未払が続くようなら出校停止を命じざるを得ない」と忠告された。
 
家に帰り、母に「俺、バイトでもしようか」と相談したところ「授業料はなんとかするからあんたは勉強頑張りなさい」と私の申し出は断られた。
 
その言葉を信じて在学中はずっと勉強を頑張り続けた。大学進学も視野に入れていた。奨学金を借りれば進学はきっと不可能ではない、そう信じていた。
 
しかし、現実は甘くなかった、母は相変わらず働く素振りを見せないまま月日は流れ、卒業式前日になって「授業料を納めていないので卒業式には出席させられない。高校卒業資格も与えられない」と担任から告げられた。
 
「卒業させてあげられなくてごめん」
初めて母から謝罪の言葉を受けた。
 
「別にいいよ、卒業式に出たところでどうにかなるわけでもないし」
強がりだった。でもここで悲しそうな表情を見せたら、母を傷付けてしまいそうで怖かった。
 
 
その後はフリーターとして生計を立て、20歳のときに地元石川県を離れ現在住んでいる愛知県で住み込みの仕事を始めた。
 
一年間は某大手自動車メーカーで派遣社員として働いていたが、単純な肉体労働が延々と繰り返される毎日で、いつしか精神的に疲れきっていた。
 
「どうして俺はこんなことしてるんだろう」「吃音がなければ...複雑な家庭に生まれていなければ...」
 
考えても仕方のないことばかりが頭の中で渦を巻くように広がり、思考の大半をドス黒い感情が埋め尽くしていた。
 
それでも、愛知に来てからの生活は辛いことばかりではなかった。初めての土地での一人暮らし、何より色んな人に出会うことができた。同じように家庭環境に問題がある人、吃音や発達障害があり困難を抱えながら生活をしている人など。
 
そういう人達の話を聞いていると、両親に対する見方にも変化が表れ始めた。仕事をしない不真面目な大人だと思っていたが、本当は真面目に働いてちゃんとした生活をしたかったんじゃないか。それでも何か事情があり仕事を継続することができなかったり、毎日の規則正しい生活のリズムを築くことができなかったのではないか。
 
そう言えば母が一度、「仕事しても人間関係が上手くいくかどうかがな...」と漏らしていたことがある。正社員で働いた経験がないと言っていたが、例えば対人関係に問題を抱えていて仕事を続けられない状況に追い込まれてしまったのかもしれない。
 
ダメな人間になろうと思ってなる人間はいない。だが、ふとしたことがきっかけで人生の歯車を壊されてしまうのはよくある話である。今では両親のことを可哀想な人間だと思える余裕も出てきた。
 
20歳で家を出るまで、例え最低限の生活でも支えてくれた母に感謝して、私はこういう大人にならないように強い気持ちを持ってこれからの人生を歩んでいきたい。
 
 
p.s.
たまたま数日前に、湊かなえの「夜行観覧車」という小説を読みました。これも複雑な家庭事情を描いた小説なのですが、その中で印象に残った言葉があります。
 
「どんなに強い殺意を抱いても、殺すと殺さないのあいだには大きな境界線がある。それを踏み越えるのと思いとどまるのとには、意志が大きく左右するものだと思っていた。(中略)止めてくれる人がいるかいないか、それに左右される場合の方が多いのではないだろうか。犯罪を起こさない人間が決してえらいわけではない」
 
とても共感できました。人殺しではないけど、学生の頃何度も自分の境遇に嫌気がさしてグレてやろうかとも考えたことがあります。でもそれを踏みとどまれたのは、自分を応援してくれている人達がいたから。例え直接応援してくれてなくても、きっとそういう人達がいるって信じることができたからだと思います。
 
もうひとつ小説の中で印象に残っているのは、癇癪持ちで何でも他人のせいにする娘とその母の会話で、
 
母 「部活でおもしろくないこともあるかもしれないし、お友達とケンカしたり、失恋することもあるかもしれない。そういうの彩花にとっては全部、わたしのせいなんでしょ?」
 
娘 「そういうのを引き受けるのが、親ってもんでしょ」
 
母 「じゃあ、わたしにはもう、親は無理だわ」
 
私も20歳頃まで、親が子どもに愛情を注ぐのは当たり前だと考えていました。朝起きて弁当を作るのは当たり前、思春期で不安定な子どもの暴言を受け入れるのは親として当然の役目というように。
 
でもそれは子ども目線で自分に都合のいいように考えていただけで、親の立場から考える視野がありませんでした。たいていの人は、大人になってからそのことに気付くのかもしれないけど。
 

 

 

 

夜行観覧車 (双葉文庫)

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