Ryo's Diary

日々の中でふと気になったことや感じたことを忘れないうちに書いていきます。主なテーマは仕事、読書、映画、吃音など。

ネガティブの中に見る覚悟

先日、Twitterを眺めていたら「吃音は就活において99%デメリット」「受容するというのは、改善の努力をしても上手くいかず諦めることではないか」「吃音があるおかげで出会えた人がいると納得してたけど、吃音じゃなければ出会えたはずの人もいるから見方を変えればデメリット」とつぶやいている人がいて、とても不快に感じてしまった。この不快感は翌日になっても消えず、他にやるべきことがあるはずなのに彼の発言ばかりが頭を埋め尽くしていた。

 

とはいえ、私にも過去、悲観的になり同様の発言をしていた時期がある。投稿者の年齢や心情を慮れば無理もないのかもしれない。私はこの不快感を仕方のないものとして、特に誰かに打ち明けるではなく蓋をして破棄するつもりだった。

 

しかしながら、これほどまでに不快な感情が沸き起こる理由が何なのか気になった。HSP気質による豊かすぎる感受性がネガティブな感情を引き受けたから?彼の中に思い出したくもない過去の自分を見たという同一視?

例えば容姿に自信がない人が恋愛をしたいと思ったとき、前向きな人は内面を磨くことに精を尽くすだろう。自らに与えられた容姿を受け入れた上で、他に伸ばせる能力を伸ばして成功を掴み取る努力をするはずだ。そんな矢先、「自分は容姿に恵まれていないから恋愛は出来ない」と嘆いている人を見て、始めは同情するかもしれないが、その事実を受け入れられず延々と不満を漏らすようになると不快感を感じるようなものである。「じゃあ、あなたは恋愛をするために何か努力したの」と言ってしまいたくなる。しかしそれは、「努力すれば成功は掴める」と信じて疑わずに生きていながら、まだ成功できていないからこそ感じてしまうものなのだろうか。もし、現実に容姿という困難を乗り越えて美女と一緒に過ごすことが出来ているなら、彼の発言にそもそも反応などしていないのかもしれない。

※これらを説明する知識を現段階で持ち合わせていない。これから心理学を学ぶ上での一つの課題にしたい。

 

よくみると、彼は吃音改善のための訓練を始めたとも記していた。吃音を受容することにより得られる幸せを否定することにより、改善への道を進む覚悟を決めているのかもしれない。もちろん、どちらを選んでも幸せにはなれる。受容の道の方が簡単だと思い込んでいたが、改善した先に待っている幸福は私が想像する比ではないのかもしれない。

 

吃音で悩むことは今ではほとんど無く、吃音があっても自分のやりたいことはある程度出来ていると思っている。しかし、確かに諦めていることもいくつかある。でもそれは、先ほどの例で言うと、容姿に恵まれない人が他人から見た目を褒められることを期待しないようなもので、それは仕方ないことだと自分の中で結論を下してしまっていた。容姿を褒められるという以外の幸福を感じようとしていた。

 

こう言う私も、改善努力にまったく興味がないわけではない。ただ、今は大学を卒業すること、国家資格を取ること、空手の大会で結果を出すこと、健康的な習慣を身につけること、それらが終わったらギターでも習い始めようかと思っていること...。吃音改善の優先順位がそれらより低いだけである。もしかしたら、改善努力を一切しないまま、死んでいくのかもしれない。

 

それは大人がよく使う「諦める」って言葉に値するものである。吃音があることに不満がないわけではない。でも、やりたい仕事が出来て恋人もいて趣味も充実していて、それでも治したいと思えるかと言えば、現状に満足してしまっている状況では無理かもしれないから。

 

せっかくの休日の午前を取り留めのない話のために使ってしまったけど、自分の中に渦巻いていた感情を吐き出したことできっと午後は有意義に過ごせることを期待している。そして、ずっと書けなかった文章を完成させたという達成感、美しい文章しか書きたくないという完璧主義への抵抗など大きな意味を与えたと信じている。

 

追記

私は吃音改善は半ば諦めているが、大学卒業という目標は18歳のときから諦めることが出来なかった。「学歴が無くても成功できる」と言われても、どうしても受け入れることが出来なかった。結果として、今は大学生をしている。これは彼にとって吃音を改善させることと同じことなのかもしれない。何かを諦めているからといって、他のすべてのことを諦めているわけではない。限られた時間の中で、何を優先するべきかどう折り合いをつけていくかの問題なのである。