Ryo's Diary

日々の中でふと気になったことや感じたことを忘れないうちに書いていきます。主なテーマは仕事、読書、映画、吃音など。

例会の反省

毎年1回は吃音当事者会の例会を担当させて頂いてます。今回4度目の担当で、自信に関する心理学をテーマに例会を行いました。

 

始めにアイスブレイクとしてレクリエーションを行いました。絵を使ったしりとり、背中に貼られた生き物の名前をジェスチャーで伝える、口頭で紙に描かれた絵の特徴を説明して同じ絵を描いてもらうといった遊びをしました。約30分ほどで終わりましたが、皆さん楽しそうに交流出来ている様子でした。

 

次に手作りの資料を用いて自信に関するデータや心理学について説明しました。A4用紙1枚にちょうど収まり、図も多用されていて割と見やすくできていたと思います。文字が小さくて多少読みにくかったことと、色の問題で囲い線が消えてしまった部分があるので注意したいです。

 

今回の資料が完成したのが当日の昼頃で、進行の練習を出来なかったことが本番で苦しむことになりました。資料をどのように説明するか全く考えておらず、途中で頭が真っ白になり数分間沈黙に陥った時間が何度かありました。

 

とりあえず資料の内容を順番に読んでいったのですが、専門用語がいくつか出てきたのでそれを説明したり理解する時間を作ればよかったと反省しています。資料の半分以上を一気に読み上げてしまったので、もっと説明を細かく区切り「ここまでで何か質問はありますか」と尋ねられればよかった。

 

そして今回は「根拠なき自信」というのがテーマだったけど、なぜ「根拠なき自信」が必要かということを私があまり理解できていなかったために説明することが出来なかった。参加者の方々にも疑問を残したままになってしまいました。

 

専門用語(自己効力感など)に関する説明文も入れておけばよかった。口頭で説明するつもりでしたが、予想以上に吃音の症状が重かったのと頭が真っ白になっていたのでしっかり説明が出来ませんでした。そして、自己効力感を高める要素の例では吃音と絡めて説明すれば分かりやすかったかなと思います。あえて吃音の話はしないでおこうと考えたのが失敗でした。

 

最後は初参加の人もいたので吃音相談を含むフリートークの時間にしました。直前までの進行が上手くいかず落ち込んで消極的になっていましたが、他のベテラン参加者たちが援護してくれたおかげで無事にトークも弾み例会を終えることができました。

 

とはいえ、例会担当で報告文を書かないといけないにも関わらず自分のことで頭がいっぱいで他人の話を聞く余裕がありませんでした。他人の話を聞きながら進行も考えて...とマルチタスクになっていたのが原因の一つだと思います。あらかじめ段取りをしっかり考えておけば、話すときはしっかり話し、聞くときはしっかり聞くことができたと思います。

 

例会担当をするのはこれで4回目なので、資料さえ作ればあとは何とかなるだろうと楽観的に考えてしまっていたのも事実です。今回の件で自分の苦手なことを改めて確認できてよかったです。

 

次に例会担当するときの解決案

・皆に配る資料とは別に進行用台本を用意する

・専門的な知識を説明するときは動画を活用する

※パワーポイントに音声をつけて流すなど

 

その他

自己紹介は基本的に毎回すればよい。そして名前を必ずメモする。出来れば近況報告も。

例会のために使用した参考文献などがあれば資料に載せておく。リラックス出来るように音楽を例会の間流しておく。

 

昔は進行が上手く出来ないと「吃音の後遺症」「発達障害」と大きな概念で考えて自分を判断してしまうことが多かった。失敗を分析して原因を詳細に突き止めることで、1つずつ対処していきたい。もちろん原因は1つではないと思うから、仮説と検証を繰り返しながら自分のことを知り問題解決できる力を育みたい。

脱メンヘラ

今年の5月頃、Twitterで知り合いの女性が「死にたい」と呟いていた。元々ネガティブな子だと知っていたけど、もし近日中にこの世界から居なくなってしまうなら最後に声をかけたいと思い長文でメッセージを送った。私も過去に死にたいくらい辛い日々を過ごしていたこと、精神科に通院したり自分を見つめ直す時間を作ることで立ち直ることができたことなどを伝えた。

 

ところが返信は返って来ず、半年近く経った今でも生きていて、連日のようにテンションの高い投稿をしている。躁うつ病など気分の浮き沈みが激しい人もいるので、テンションが高いからすぐ死なないとは限らないけど。

 

私がその女性にメッセージを送ったのは、ただ知り合いだからという理由だけではない。彼女は僕の人生に大きな影響を与えてくれた。

 

彼女が情報を教えてくれたことで気になっていた映画を観ることが出来て、その結果素晴らしい仲間と出会い高額のロードバイクも買う決意が出来た。私の人生に大きな影響を与えてくれたアドラー心理学を知ることが出来たのも、彼女が当事者会のMさんに『嫌われる勇気』を勧めてくれて、Mさんがそれに感銘を受けて定例会で取り扱ってくれたからである。

 

もちろん私が映画を観ることができたりアドラー心理学を知ることができたのは彼女以外にも色んな人のおかげである。情報がリレーのように渡りに渡って私のところに回ってきたという形で、彼女はその登場人物の一人に過ぎない。しかし、彼女が欠けていたら私のところまで情報は回ってこなかったかもしれない。こんなこと考えていたらキリがないと言われるかもしれないけど、せめて私が辿ることができて気付けるところまではその登場人物全員に感謝をしたいと思っている。

 

何より私がある人に誹謗中傷されていたときに唯一心配して声をかけてくれたのも彼女である。たった一人でも自分を心配してくれる人がいることの心強さを教えてくれた。いつか恩返しがしたいと思っていた。

 

とはいえ、今回の件で女性の言う「死にたい」という言葉には「とても辛いから構って欲しい」というニュアンスが含まれているのかもしれないと感じた。女性は解決策より共感を求めているという話もある。あるいは、とても辛い心理状態を表現する言葉を「死にたい」しか知らないのかもしれない。もっと豊富な語彙力で繊細な心理状態を表現することが出来れば、自分の心理状態を客観的に見つめることが出来るんじゃないかな。これは彼女に限らず今の時代を生きる若い人全員に言えることである。

※そういえば以前付き合っていた女性が「死にたい」と言っていたので真剣にどうすればいいか考えていたら、それに気付いた彼女が「死なないよ」とケロッと言っていたことを思い出した。

 

そして、今までの人生でよく分かったのが、本人に変わる気持ちがないと何も変わらないということである。周りの人がどれだけ言葉をかけても、自分の意思が無ければ未来は何も変えられない。優しい言葉をかけてその場限りの安心を与えることは、長い目で見てその人の成長に繋がらないのである。

 

自分は不幸で可哀想な人間だと思っていても、いつか王子様が助けにきてくれるわけではない。自らの意思で幸せになるための階段を一歩一歩上らなければいけないのだ。自分はシンデレラではないと気付いて始めて、自分だけのオリジナルストーリーが始まるのである。

 

というわけで、最近は精神的に不安定な人、いわゆるメンヘラとは極力関わらないようにしている。ホリエモンの書籍で「誰かを助けることで自分の成長に繋がるならそうした方がよい」と書いてあったけど、そうでない場合は見捨てる勇気も必要である。薄情だと罵られても、メンヘラのために自分の時間を犠牲にして自分の精神状態をボロボロにしてまで話を聞いたり優しい言葉をかける時間を、もっと自分が成長するための時間に使えるはずだから。

 

※最後に一応書いておくが、私は最初の女性に女性としても人間としても魅力があるとは思っていない。しかし、そんな人でさえ、私の人生に大きな影響をもらしたのである。魅力と呼ばれるものが何一つ無くても、誰かの人生を変えることができるということを身をもって経験できたことにはとても勇気付けられた。

 

※たまたまTwitterで彼女の投稿が流れてきたので今回の記事を書くに至った。誰かがイイねしたとか、オフに出来る機能があればよいのだが...。彼女に対する複雑な感情を吐き出しておくことで、今後同じような考えがグルグルしないことを祈っている。

若いから挑戦できる?

先日、誕生日を迎えて27歳になった。若いのか、若くないのか、よくわからない年齢。アラサーと呼ばれる歳になってしまったことに自分でも驚いてしまう。

 

肉体的にも精神的にもまだまだ若いつもりで、挑戦したいことはたくさんある。来月から新しい職場で働くこともその一つ。製造業界から福祉業界への転身。経験は何一つ無く、給与もかなり下がる。周りの人達から「若いっていいね。新しいことに挑戦できて」とよく言われた。

 

「若いから挑戦できる」という言葉に、違和感を感じてしまう。裏を返せば「歳を取ると挑戦できなくなる」と言われている気がするから。

 

そう言いたくなる気持ちは理解できる。一般的に30代以降になると責任の重い仕事を任されたり、人によっては育児にも迫られ、新しいことをするための時間や精神的な余裕が無くなってくる。

例えば給与は安いけどやりがいのある仕事がしたいと考えても、それまでに築き上げた会社での立場や現在の生活を守るための収入を手放すことを考えれば、転職に踏み切れない人の気持ちはよくわかる。愛する妻と子供がいればなおさらだ。

 

ここまで書いて、ふと気付いた。最初に「若いから挑戦できる」と言ってきて違和感を覚えた人は40代で独身だった。ぼくはその人に対して「歳を取ったからではなく、”現状に満足している”から挑戦できないんでしょ」という感想が頭に浮かんだのだ。本人は深い意味なくいってるのかもしれないが、「この歳になると人生消化試合でワクワクすることは訪れない」と将来に対する不安な気持ちを起こさせられてると感じてしまうのだ。

 

昔は結婚して子供を作り、一軒家を建ててマイカーを所有することが幸せのゴールだと勘違いしていた。それを実現するためにも、20代前半までに定職に就いて貯金を始めなければいけないと思い込んでいた。今はそんなものに一切興味が無い。現状に満足せず、多くの人がしない挑戦をしていきたい。

 

※僕が40代になる頃には、落ち着いた生活を欲しているかもしれない。結局、そのときしたいことをすればいいだけの話である。

頭の中で渦巻く気持ち

仕事で単純作業をしているときなど、ずっと独り言を言っているときがある。例えば退職の挨拶で何を言おうかと考えているときは、無意識に頭の中で妄想ともつかないシミュレーションをしていて、実際にその声が漏れてしまうことがある。

 

また、楽しいことを妄想してはニヤニヤしてしまうこともよくある。前の職場で一度そういう顔を見られて、「あいつは仕事中エロいことを考えている」と言われたことがある。独り言といい実際にそういう人を−統合失調症のような精神疾患がある人はともかく−見たことがあまりないから、自分が人より妄想に耽る癖があるのかと心配になることがある。

 

何度か記事にも書いたけど、理想と現実のギャップが大き過ぎるが故に、妄想で作り上げた理想の世界に依存してしまっているのかなと自分では考えている。しかし、自分が成功した姿をイメージすると満足して努力をしなくなってしまうとDaiGoの本にも書かれていたから、そこは気をつけないとなって思う。

 

独り言ではなく、他の誰かから批判される声もよく聞こえる。新しいことをしようと考えたときや世間一般の人があまりやらないことをやろうと考えたとき、具体的な人物に批判される言葉が浮かんでくる。

 

例えば転職をしようと考えたとき、普段ほとんど連絡を取っていない親に批判される言葉が次々と浮かんでくる。自分の人生だからどう生きようと誰に何を言われようと気にすることはないのだが、頭の中で批判される言葉が浮かんではいちいちそれを論破してやろうと頭の中で戦ってしまう。

 

こういうのって、他人に聞いたことないけどよくあることなのかな?さっき小説を読んでいるとき、ふと理不尽なことに対する不満の言葉が頭の中で湧き上がっては止まらなくて、本に集中しようと頑張っても出来なくて、部屋にいても落ち着かず23時を過ぎてたのにホテルを飛び出して頭を冷やしてきた。

 

吃音の集まりで「HSP気質があり他人の言動をすごく気にしてしまう」という話をしたら「考え過ぎなんじゃない?」と言われたことがある。続くように他の人が「昔から悩む人は暇人だと言われている。悩むくらいなら仕事や趣味などに打ち込んだ方がいい」と言った。

 

この人達は何も理解してない。HSP気質で悩んでいる人に「考えすぎだよ」という言葉は、吃音で悩んでいる人に「どもっても気にしなくていいよ」って言うのと同じこと。それが出来ないから苦しんでいるのに...。吃音のことを理解して欲しいと言いながら、他人が抱えている悩みには無頓着なんだなって思った。

 

「悩む人は暇人」という発言も、現在悩んでいる人がそう言われてどう感じるかとか考えてない。「仕事が忙しくて悩む暇もなかった」と言う人もいるけど、仕事や好きなことをしていても嫌なことを考えてしまう人の気持ちを、考えたくもないのにどうしても頭に浮かんで離れず苦しんでいる人の気持ちを、どうして理解しようとしないんだろう。他人事だからかな。

 

こういう内容が頭の中でグルグル回っている。しかしながら、精神状態によっては一切このような悩みが浮かばず平穏に暮らせることがある。だから考え方の癖や認知の問題ではない。

 

今まで、ポジティブに生きようと無理しすぎていたのかもしれない。辛いこと、理不尽なこと、一人で抱え込み過ぎているのかもしれない。例えば以前最低な女性と付き合って別れたときも、他人の陰口を言わない人間でいたいという自尊心や彼女との出会いで何を学べたかということに意識を向けて、彼女との交際期間にボロボロになった心を無視してしまっていた。どうして別れたの?と聞かれても「俺が未熟で、彼女の弱さを受け止めてあげられなかったからだよ」とカッコつけてしまった。本当はどれだけ酷いことされたか話して、周りに慰めてもらえばよかったのかもしれない。

 

愚痴は言ったらダメと言われるけど、理不尽なことをされて傷付いたという話はこれからはここに書いたり誰かに話していこう。物事を全てポジティブに捉え続けるなんて心が持たないから。そして弱い部分も含めた人間としての本来の感情を取り戻そう。

 

「叩かれないための予防線」も、出来るだけ無くしていこう。例えば「考えすぎだよ」と言われて傷付いたという話では、「彼としては慰めようとしてそういう発言をしたのでは?」「言葉だけの意味ではなく、その言葉を発した彼の気持ちを考えよう」とか言われないためにそのことは十分理解している旨をいちいち書いてたけど、なんでそこまで書かなアカンねん。「言われんでも分かっとるわボケ」とスルーしよう。もしそれで「自分にとって都合の悪い意見は無視して悲劇の主人公気取りか」って追撃されても...というふうに、批判される言葉が次々と浮かんで来るのは病的だよね。

 

でも、こうやってネガティブな部分を晒せるようになったことが自分にとって大きな変化だと思う。弱さの中にこそ、強さが隠れているのかもしれない。

 

※最近、ブログを更新した後に加筆修正をよくしています。マーク・ザッカーバーグの「完璧を目指すよりまずは完成させよ」という言葉を実践していこう。

ネガティブの中に見る覚悟

先日、Twitterを眺めていたら「吃音は就活において99%デメリット」「受容するというのは、改善の努力をしても上手くいかず諦めることではないか」「吃音があるおかげで出会えた人がいると納得してたけど、吃音じゃなければ出会えたはずの人もいるから見方を変えればデメリット」とつぶやいている人がいて、とても不快に感じてしまった。この不快感は翌日になっても消えず、他にやるべきことがあるはずなのに彼の発言ばかりが頭を埋め尽くしていた。

 

とはいえ、私にも過去、悲観的になり同様の発言をしていた時期がある。投稿者の年齢や心情を慮れば無理もないのかもしれない。私はこの不快感を仕方のないものとして、特に誰かに打ち明けるではなく蓋をして破棄するつもりだった。

 

しかしながら、これほどまでに不快な感情が沸き起こる理由が何なのか気になった。HSP気質による豊かすぎる感受性がネガティブな感情を引き受けたから?彼の中に思い出したくもない過去の自分を見たという同一視?

例えば容姿に自信がない人が恋愛をしたいと思ったとき、前向きな人は内面を磨くことに精を尽くすだろう。自らに与えられた容姿を受け入れた上で、他に伸ばせる能力を伸ばして成功を掴み取る努力をするはずだ。そんな矢先、「自分は容姿に恵まれていないから恋愛は出来ない」と嘆いている人を見て、始めは同情するかもしれないが、その事実を受け入れられず延々と不満を漏らすようになると不快感を感じるようなものである。「じゃあ、あなたは恋愛をするために何か努力したの」と言ってしまいたくなる。しかしそれは、「努力すれば成功は掴める」と信じて疑わずに生きていながら、まだ成功できていないからこそ感じてしまうものなのだろうか。もし、現実に容姿という困難を乗り越えて美女と一緒に過ごすことが出来ているなら、彼の発言にそもそも反応などしていないのかもしれない。

※これらを説明する知識を現段階で持ち合わせていない。これから心理学を学ぶ上での一つの課題にしたい。

 

よくみると、彼は吃音改善のための訓練を始めたとも記していた。吃音を受容することにより得られる幸せを否定することにより、改善への道を進む覚悟を決めているのかもしれない。もちろん、どちらを選んでも幸せにはなれる。受容の道の方が簡単だと思い込んでいたが、改善した先に待っている幸福は私が想像する比ではないのかもしれない。

 

吃音で悩むことは今ではほとんど無く、吃音があっても自分のやりたいことはある程度出来ていると思っている。しかし、確かに諦めていることもいくつかある。でもそれは、先ほどの例で言うと、容姿に恵まれない人が他人から見た目を褒められることを期待しないようなもので、それは仕方ないことだと自分の中で結論を下してしまっていた。容姿を褒められるという以外の幸福を感じようとしていた。

 

こう言う私も、改善努力にまったく興味がないわけではない。ただ、今は大学を卒業すること、国家資格を取ること、空手の大会で結果を出すこと、健康的な習慣を身につけること、それらが終わったらギターでも習い始めようかと思っていること...。吃音改善の優先順位がそれらより低いだけである。もしかしたら、改善努力を一切しないまま、死んでいくのかもしれない。

 

それは大人がよく使う「諦める」って言葉に値するものである。吃音があることに不満がないわけではない。でも、やりたい仕事が出来て恋人もいて趣味も充実していて、それでも治したいと思えるかと言えば、現状に満足してしまっている状況では無理かもしれないから。

 

せっかくの休日の午前を取り留めのない話のために使ってしまったけど、自分の中に渦巻いていた感情を吐き出したことできっと午後は有意義に過ごせることを期待している。そして、ずっと書けなかった文章を完成させたという達成感、美しい文章しか書きたくないという完璧主義への抵抗など大きな意味を与えたと信じている。

 

追記

私は吃音改善は半ば諦めているが、大学卒業という目標は18歳のときから諦めることが出来なかった。「学歴が無くても成功できる」と言われても、どうしても受け入れることが出来なかった。結果として、今は大学生をしている。これは彼にとって吃音を改善させることと同じことなのかもしれない。何かを諦めているからといって、他のすべてのことを諦めているわけではない。限られた時間の中で、何を優先するべきかどう折り合いをつけていくかの問題なのである。

同じ空気を共有したい

盆休み前半は4日間に及ぶスクーリングを受けてきました。行く前は「4日間連続はキツイ」って思ってたけど、想像以上に授業が楽しくて最終日が来るのがとても寂しかった。

 

授業はレクリエーションワークという内容で、実際に自分達でレクリエーションを考えたり実践していました。例えば初日はすごろくを各グループごとに作りました。マス目には「前の人とアルプスいちまんじゃくをする」「尻文字で自分の名前を書く」「次の番が来るまで南無阿弥陀と唱える」など遊び心が満載でした(笑)自分じゃ絶対思いつかないな〜。

 

レクリエーションはどれも簡単で特別な道具が無くても出来るものばかりでした。初対面の人とすぐに打ち解けたり、楽しみながら運動や脳トレが出来たりするので吃音活動にも積極的に取り入れたらいいなと思った。

 

実は3日目の朝、今回のスクーリングがあまりにも楽しくて涙が出てきて、学校行く前に公園で一人泣いていました。皆と仲良くワイワイすることなんて今まで全然無かったから、数日前会ったばかりの人達とこんなにも笑って楽しい時間を過ごせるなんて思わなかった。

 

今回参加した学生10人は年齢が近い人ばかりで明るくノリも良く、授業中よく笑いが起きていました。僕は特に積極的に発言していません。それでも、皆と同じタイミングで笑って、話している人がいたら相槌を打って、それだけで楽しい空気を共有することが出来ました。昔は「自分も何か話さなければいけない」と思い込み、それでも話せないときは疎外感を感じていました。口下手なりの楽しみ方も出来るようになってきたなと感じています。

 

場を盛り上げるためのジョークやイェーイとかも苦手だと思い込んでいたけど、スクーリング中は皆の波に乗って少しはハジけることができました。本当に皆と仲良く楽しくしたいと思ったときは、人って変われるんだなと自分でも驚いています。

 

今でもスクーリングの余韻が残っていて、本当は僕もこうやって誰かと一緒にワイワイ楽しみたかったんだと気付くことができました。「自分は一人が向いている」と決めつけて、皆が仲間と楽しくしている時間を僕は自分磨きや一人旅などの時間に当てようと考えていました。確かに一人は楽だし好きなことができる。でも、それだけだといつまでたっても心の溝は埋まらないんですよね。

 

最近吃音関係の行事でフリートークの場面がよくある。自分にとって興味がない話題が出てきたときは完全にOFFになって、その輪から一歩下がってしまうことがある。興味のない話を聞いても理解できないし無駄だと考えていたけど、そういう話でさえ自分の気持ち次第で楽しむことが出来るんだと思います。もう冷めた目で傍観するのはやめよう。

 

では。

仕事とライフスタイル

先日、部長が朝礼で「しばらく仕事が立て込んでいて、皆には残業や休日出勤をしてもらうことになる。もしそれで不満に思う人がいるなら、辞めてもらって結構。モチベーションの無い人はうちの会社にいらない。」と言っていました。正直、この話を聞いた直後は不快な気分になりました。

 

僕は町工場で働いているのですが、大型設備を取り扱う設備業なので全国各地の現場で設備の搬入・据付工事や定期メンテナンスをするため2週間〜1ヶ月程度の出張にたびたび行かなければなりません。具体的に言うと、1年の1/3以上は自宅を留守にしてきます。

 

ここ2年間、出張や休日出勤のために自分がやりたいことが出来ない欲求不満の状態が続いていました。例えばサークル活動や興味のあるイベントに参加できない、定期的に空手の稽古に通えない、大切な人と過ごす時間を取れないなど。今年からは通信課程の大学にも通っているのですが、スクーリングや試験は出来るだけ出張の無い時期を狙って予定を入れるようにしていて、やはり都合が合わず毎月のように学校に行くことができなくて進行が遅れています。

 

それでも、出張があるおかげで学校に通えるほどのお金も貯金できたし、全国各地を観光したり、空手の出稽古や他の言友会の例会にも参加することができました。職場は吃音の理解もあり、同じ吃音仲間も働いていて、仕事自体にもやりがいがあって、そこそこ居心地の良い環境ではあります。

 

だから多少不満はあるものの、良い部分もあるので何とかモチベーションを保ちながら今の仕事を続けてきました。ですが、やはり20代のうちに空手の稽古をしっかりして全国大会に出場したい、学校にも毎月通いたい、サークル活動に参加したり趣味に使う時間がもっと欲しい。いつかは辞めようと思いながらも、その時期を決められない状況にいました。

 

そんな中で、最初の営業部長の発言は不快に感じてしまいました。仕事が忙しくなり残業や休日出勤を強いられるということは、その分プライベートの時間を犠牲にしなくてはならないということ。仕事が好きで、仕事に生きる人生を選んでいる人はいいかもしれません。ですが、皆それぞれ家族がいて、趣味があって、プライベートの時間を大切にしたいと思っている人もいるはずです。

 

仕事に波があるのは仕方ない。暇なときは17時に仕事は終わり土日も休み。反対に忙しい時期もそれはあるだろう。それがこの業界の体質なら、嫌だなと内心思いつつも特に不満を口に出さず働いたと思う。なのにそれぞれの事情を何も考えない、従業員のことを会社を動かすための道具としか思っていないような発言にはモチベーションを下げられました。その発言をした人は60歳越えていてラグビーをしていた人だったので、昔ながらのスパルタ根性系の「やる気がないならやめちまえ!」という鼓舞の仕方をしたかったのかもしれません。本人は皆の士気を上げるための発言だと思い込んでいるかもしれませんが、受け取る側の気持ちを考えず脅しのかかった言い方では従業員のモチベーションを上げることはできません。一流企業のエピソード見ると、従業員のことをしっかり考えた思いやりのある言葉が不況や繁忙期を乗り越える力になっているから。

 

しかしながら、部長の発言を悪く受け止めてイライラするのは良くないので「これから仕事が忙しくなる。自分のライフスタイルを考えて、もし仕事より大切な趣味や家族があるならそちらを優先しなさい。」という、一見厳しそうに見えて思いやりのある言葉だと受け取りました。特に僕は自分の意思を尊重出来ず流されてしまうことが多いので、あえて怒りの感情を誘発して本音を引き出し意思を確認しようという粋な計らいだと超ポジティブに考えています。

 

ということで、どれだけ長くても来年の春(早ければ今年いっぱい)を目処に転職しようと思います。今の仕事はやりがいはあるけど、自分のライフスタイルには向いていないから。

 

自分の生き方をしっかりと考えるきっかけを与えてくれた部長には感謝しています。

 

※この記事の目的

⑴自分がどのような発言を受けて不快になったかを知ることで、他人に同じ発言をしないようにする。

⑵発言した人がどのような目的でそういう発言をしたのか意図を推測する。その上で、自分にとって都合のよい風に解釈を変える。出来事に対するポジティブな意味付けを残しておくことで、後でまた今回の出来事を思い出したときにネガティブな感情を起こさないようにする。

⑶この世に起こる全ての問題は何か大切なことを気付かせてくれるために起こるという必然の法則から、この出来事をきっかけに何を学び自分の人生にどう影響を与えたかを理解する。

 

前に職場の先輩のことについて書いた記事を読んだ人から「愚痴を書いてる」と言われたのが気になって、愚痴というのは「言っても仕方のないこと」であって、僕はネガティブな出来事をどのように受け容れて前に進む力に変えたかという記録を残すために書いているので「愚痴」とは違うと考えています。

 

あとがき

前半の個人的な事情は省いてもよい。必要以上に文章が長くなる。今回はせっかく書いたので残すけど、次回からは簡潔にまとめるようにします。